2004年・提携米産地確認会 東北
[ 2004年12月31日 橋本明子 ]
■日本海沿いに北上して提携米メンバーの田をまわる
(橋本明子)

9月1日から5日まで、牧下、前川の3人が変わらぬメンバー、あとはやまゆりの加藤さん、
奈良の清水さんらを交えてたんぼをまわった。
はじめの新潟・加茂では、一部に倒伏があったものの、稲は稲のかたちと色彩をもっていることに安堵した。去年にくらべて、
少し穂が短い感じをうけたが、生産者側の感想も、穂が垂れない、というものであり、後日刈り取ってみたところ、予想以上の減収であったとか。
今年の天候が稲の生育にきびしいものがあったのだ。
新潟北部へ日本海沿いに向かうと、景色が一変した。日本ならではの美しいリアス式海岸の連続で、いつもは楽しいドライブが、今回は、
続く台風の塩害をうけて、山も田も畑も茶色に塩で焼けた冬の風景と変わって、心が痛んだ。
山形・庄内、ここは塩害が少なかったのはせめてものことであったが、夜間に吹き始めた台風は、フェーン現象を伴っていたため、
熱波が稲を襲う結果となった。田に水を入れていたところ以外は稲穂の水分蒸散が激しく、止め葉と穂が枝分かれした枝梗が白く枯れていた。
実りの早い餅米は、米粒がばらばらになって田におちていた。どの田もいちようにそうなのではなく、地形により、台風がきた海からの距離により、
影響が微妙にちがっていた。
遊佐は海から2キロの距離であり、海からの遮蔽物がなく、高潮につきあげられた強風がまともに田を襲った。穂から上が、稲を刈り取って2、
3日たったときのような薄茶色に変わり、逆に稲の茎は青々としていた。村の古老でさえ、経験したことのない出来事で、一夜明けて、落葉樹、
とりわけ桜の葉が茶色に変色しているのを、いぶかしく思ったそうである。畑のだだちゃ豆も葉がおちて、実いりがおぼつかなくなった。
秋田の大潟村も、事情は似通っていた。もともと湖の水を抜いただけで田とした場所である。潮風は村の田全面を吹き抜けた。
北の八郎潟町近くに植えられた桜並木は11キロにわたり、全部の葉が落ちてしまった。風よけのポプラの木は根こそぎバタバタと横倒しとなった。
それでも生命力の強いポプラは、もう新芽をだして、薄緑色になっていた。が、その後襲った18号台風で、
ポプラのせっかくの新芽は黒くなって落ちてしまったそうであった。
被害は海に近い南のほうがひどかったが、それでも品種、栽培法などから、道路とどう向き合っているかと言った立地条件などが、
微妙に影響していた。残念だったのは、有機栽培であるがために、除草、排水などで、田に入る頻度が高く、
稲がじゅうぶんに根を張れなかったために、慣行栽培より被害が大きいとおもわれたことである。
同じ秋田で、山本町では、塩害を受けていない田をみて、ほっとしたのが事実である。台風襲来で、虚をつかれた!
と悔しがった生産者の土橋さんだったが、はじめ倒伏した稲も立ち直り、
風にもまれて傷んだ稲がイモチにやられなければ豊作となるだろうと思われた。
1年1作の稲。有機栽培に半年の労力と精神を集中したあげく、1夜にしてその成果を失ったとしたら、あなたならどう対処するだろうか。
オロオロ歩き、と宮沢賢治は詩にしたが、そうしたところで、どうなるものでもない。現実をそのとうり受け止めるほかないのである。
当事者でないわたしですら、9月始めの5日間を経験して、おちこんでしまった。家に戻ったが、どうにも仕事が手につかず、疲れがどっとでた。
台風襲来の時期が8月20日をてはじめに、8月に2度、9月はじめにさらに1度、コースはいずれも同じであった。8月の襲来は、
東北ではかってなかったことである。また、台風の規模が大きく、フェーン現象や高潮を伴って、沿海部の被害を大きくした。
襲来の時間が夜にはじまり、長時間荒れ続けたうえ、ほとんど雨を伴わなかった。海岸部に防潮堤を築く、丘陵をならして飛行場を作るなど、
自然の地形のままでなく、改変のおこなわれている場所が多いことも影響した。
台風襲来の多い九州、四国では気候の温暖さもあって、稲は台風前に収穫してしまう。が、東北に同じ事を期待するのは無理である。とはいえ、
早生の稲のほうが実をきちんと付けていた分、被害が小さくてすんだ。将来、品種の選択を考慮することは必要かと思われる。
強風に長時間耐える体力を稲につけるには、田に水を張ることである。台風の時には水をはれ、という言い伝えがあると聞く。
古老の言い伝えを大切に、まだ知らないことを、掘り起こすことも大切ではなかろうか。
この5日間でわたし自身、大きな経験をした。きびしい現実は、今回限りでなく、この先も似たことがあるだろうと思われる。それこそ、
どう生きるかを問われるのである。
